玉田哲也というスキーヤーのことを書きます。
オリンピックに出たわけでも、ナショナルチームの一員として活躍したわけでもありません。でも玉田さんは、私にとってスーパーヒーローでした。
話は、今から30年近く前までさかのぼります。
前は海、後ろは山。今でこそ立派な水族館が近くにできましたが、かつては釣り人ぐらいしか訪れる人のいなかった横浜のはずれの地の大学に、私は通うことになりました。そして、それまで一度しか経験のなかったスキーを、なぜか体育会ですることになったのです。玉田さんは、そのときの4年生のひとりでした。
総じて牧歌的な部でしたが、それでも幹部の3年生や教育係的な2年生の姿はときに厳しく映ったのに比べ、4年生はあらゆる意味で超然とした存在でした。とくに玉田さんは、大学の近くに住んでいたこともあってか、食事をおごってもらったり、飲みに連れて行ってもらったり、何かと面倒を見てくれました。行きつけのスナックにボトルをキープしている玉田さんを見て、「大人だなあ」と憧れたものです。
私のように大学からスキーを始める人間も少なくなかった部内において、子ども時代を札幌で過ごした玉田さんのスキーの実力は突出していました。当時の大会の記憶はなぜかとても曖昧なのですが、最大の目標だった全国学生岩岳スキー大会に、わが部は玉田さんのポイントだけで予選を通過して出場を果たしたように覚えています。おかげさまで、私も新人戦のスタートを切ることができました(ほとんどプルークボーゲンだったはずですが)。玉田さんは、本当にスーパースターだったのです。
大学を卒業して就職した玉田さんは、学生時代からの恋人と結婚し、2人のお子さんに恵まれます。私とは、賀状のやりとりや、数年に一度のペースで会う程度のつきあいが長らく続いていました。
「便りのないのは良い便り」という言葉があります。私のような面倒臭がりには非常に都合が良く、つい便利に使わせてもらってしまいます。でも、この言葉には実は裏があって、連絡の間隔を空けてしまうと、嬉しくない知らせを突然受け取ることになるかもしれない、とも言えるのです。そう思い知らされました。
昨年の初冬、玉田さんに関する知らせが届きました。本人からではありません。玉田さんの同期の先輩のメールがスキー部OBの間に転送され、それが私のもとにも届いたのです。
玉田さんは、末期のガンと戦っていました。闘病生活はすでに3年近くに及び、かなり厳しい状況であることが綴られていました。それを受けて、OB数名が「とにかく一度集まろう」ということになったのですが、その席で玉田さんが一番望んでいることが判明しました。
「岩岳のOB戦に出たい」
先にちょっとだけ触れた全国学生岩岳スキー大会では、2004年から「岩岳OB&OGスキー大会」が行なわれるようになっています。学生時代に最大の目標であった岩岳に、今でも強い思い入れを持っている玉田さんは、この大会にどうしても出場したいと願っているとのこと。その気持ちが支えとなり、つらい治療にも耐えられている側面もあるのではないか、という話でした。
問題は、大会が開催されるのが3月だということです。そのときに玉田さんがスキーのできる体調でいられるのか、誰もが不安でした。そこで、「まずは岩岳で合宿をしよう」ということになったのです。
※長くなってきたので、ここで一度区切ります。
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